これから数回にわたって世界の地域について理解を深めるためのコーナーを設けることになりました。 今回は第一回目として、在校生ハス(内蒙古)さんの恩師であるフフバートル先生(和光大学)が大学のHPに載せておられるモンゴルについての記事を許可を得て、転載させていただくことができました。 |
「モンゴル」から「モンゴル」へフフバートル 人間関係学部講師ここで私は「モンゴル」という概念と各地のモンゴル人たちがもつモンゴル人意識について簡単に申し上げたいと思います。「モンゴル」とはいったい何であるかという、あまり考える必要のないことを最近ちょっと考えてみました。そのために日本や中国、そして旧モンゴル人民共和国などで使われている最もポピュラーな辞書を調べてみました。 日本の『広辞苑』や中国の『新華字典』などでは、だいたい「モンゴル」は地理的位置、すなわち、モンゴル高原と民族、そして、モンゴル人民共和国という国家で説明されています。これは中国で教育を受けた内モンゴル出身の私にとってはあまり抵抗のない説明です。一方、旧モンゴル人民共和国の場合は一九六〇年代の辞書には、「モンゴル」は国家と民族の順序で説明されています。さらに一九八〇年代に出版された『青少年百科辞典』を開いて見ると、「モンゴル」はただ、モンゴル人民共和国を指すのみに止まっています。実際にこれらの辞書が示している通り、中国の中のモンゴル人たちは民族としてのモンゴル・アイデンティティをもっていますし、モンゴル国の人びと、特に若者たちはモンゴル国民としてのモンゴル・アイデンティティをもっていることが普通です。 旧モンゴル人民共和国ではいつごろから国境外のモンゴル人を「モンゴル」から外すような意識を育ててきたかということを考えてみなければなりませんが、一九五〇年代の後半まで旧モンゴル人民共和国では、それまで一五年ぐらい使ってきたキリル文字を、内モンゴルの方言を考慮に入れて改革し、民族共通の文字を作り直そうと努力して、それまでの数十年にわたる分断の歴史の中で生じた文化的な溝を埋めようとしていました。 いずれにしても、中ソ対立の二〇年間は旧モンゴル人民共和国のソビエト化を加速させた時代であると同時に、中国においては「文化大革命」の一〇年間がそうであるように、モンゴル族の漢化が進んだ時代でもあります。両大国の敵対関係の狭間で、国境の両側のモンゴル人たちの間には、それまでになかった心理的隔たりが生じたことは事実だと思います。その中で現れたのが、モンゴル国のモンゴル・アイデンティティではないかと思うのですが、もちろん、外モンゴルの独立によってモンゴル民族がはじめて近代国家をもつようになったわけですから、一九五〇年代以降モンゴル人民共和国の国際的地位が上昇するにつれて、そこの住民の国民としてアイデンティティが育ってきたと言えると思います。すなわち、近代国家が国民をつくったということです。 話を中国側のモンゴル人にもどしますが、中国側のモンゴル人たちは中国国民として、中国の五六の少数民族の中の一員として自分を位置づけていますので、その「モンゴル」はつねに「民族」のレベルを超えることはありません。また「モンゴル」をつねに「民族」のレベルでしか意識していないので、中国の外にいるモンゴル人たちに対する同胞意識も強く、モンゴル国の人たちを「モンゴル」から外すという発想が生まれることはまずありえないと思います。 このように、モンゴル国のモンゴル人たちがもつモンゴル人意識は「国家的」であるのに対して、内モンゴルの人たちがもつモンゴル人意識は「民族的」だということができます。その違いが日本に留学しているモンゴル人留学たちの行動パターンにもそのまま反映されているように思われます。 日本には両方のモンゴルから留学生がたくさんきています。モンゴル国の学生たちはほとんどが国費なので、国家の管理による正確な統計があると思いますが、内モンゴルからの学生たちの場合はほとんど私費留学生であるために、中国の管理がそこまで届かないということもありまして、正確な人数はよくわかりません。 モンゴル国からの留学生たちのほとんどが理科系やコンピューター、または、経済、法律などの勉強をしています。まさに若いモンゴル国の将来の担い手として日本で先端技術や近代的学問を学んでいるわけです。一方、内モンゴルの留学生たちは、私も含めて日本でモンゴル学を学んでいる人がたくさんいます。これには来日以前の内モンゴルでのモンゴル族の教育事情や個人の都合があることはいうまでもありませんが、内モンゴルからの留学生たちには学問の領域でも「民族」にこだわる傾向があるように思われます。 そして、モンゴル国からの留学生たちは「在日モンゴル人留学生連盟」という近代的な組織の活動を通して定期的にモンゴル国大使館などで交流しているようですが、内モンゴルからの留学生たちは年に二回ほどあるモンゴル祭のゲル(フェルトの天幕)の中か、モンゴル相撲の「土俵」の周りに集まるのが習わしです。ちなみにモンゴル相撲には土俵はありません。ここに集まってくる男たちは、ウランバートルから来たモンゴル国の若者たちとは違って、そのほとんどが馬に乗るのは言うまでもなく、モンゴル相撲をとることもできます。モンゴル祭では民族音楽や歌謡を披露するほか、モンゴル独特のミルクティーや羊肉の塩煮なども出ます。 このように、仮にモンゴル国の留学生たちの行動が「国家的」「近代的」と言えるならば、内モンゴルからの留学生たちの行動は「民族的」「伝統的」だと言えます。実際にモンゴル国の留学生たちは渋谷のモンゴル大使館の二階から上に上がっていけば自分が「モンゴル人」であることが確認されますが、内モンゴルの留学生たちは代々木公園で相撲を取っているか、またはモンゴル祭のゲルの中で羊肉の塩煮を食べていない限り、自分が「モンゴル人」であることを確認する手段はありません。「モンゴル大使館の二階」と申しましたのは、「国際法上」二階から上はモンゴル国民しか上がれないからです。また、代々木公園では毎年一〇月にモンゴル相撲大会が開かれます。 実際に、モンゴル大使館の二階へ上がっていくことで感じるモンゴル国の留学生たちの「モンゴル人」意識は、きわめて「国家的」「近代的」なもので、それに対して、代々木公園で相撲を取って感じる内モンゴルの留学生たちの「モンゴル人」意識は非常に「民族的」「伝統的」だと言えます。 しかし、国際関係が国家レベルで進められていく世の中では、「民族」も「伝統」も通じません。内モンゴルの人たちにとっては、外国という国際的な場に出てこないとわからないことだと思いますが、結局、両側のモンゴル人たちの「モンゴル人」意識の違いは、まさに「国家」対「民族」、「近代」対「伝統」にあるようです。すなわち、「モンゴル人」という概念を国際法という近代的基準によって国際的なレベルで考えるか、それとも伝統にしたがって民族のレベルで考えるかという考え方の次元が違いますので、異なるモンゴル・アイデンティティをもつ両側のモンゴル人たちが、こうした意識の違いをお互いに理解していくことはたいへん難しいことだと思います。 この報告が掲載されているサイトは こちら
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