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講師から ・・・・・広島大学大学院教育学研究科 水島裕雅 |
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広島 YMCA で日本文化について教えてほしいと言われて3年目になる。 しかし、来年私は本籍の広島大学で定年を迎えるので、こちらで教えるのもやめることとなった。 「立つ鳥跡を濁さず」という日本の諺もあるように、退き際の潔いのが日本人の美学であると思ってきたが、なにか「ひとこと」と編集子に頼まれたので、最近考えたことなどを述べて依頼に応えたいと思う。 |
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日本語教育のなかで日本文化について教えるのは難事であると思う。 これが日本の文化だと思うとたいていそれと反対のものが出てくる。 たとえば、先に「退き際の潔いのが日本人の美学である」と言ったが、実際はそう思わない人がたくさんいるし、現実にはそうできないことが多いかも知れない。 |
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しかし、あえてそう言うことで相手の反論を封じ込めるのは一つの修辞的方法であり、また、古くから言い習わしてきた諺を使うのも一つの論法であろう。 こうしてみるとわれわれは日本語の言い回しによって物事を考え、また考えたことを伝達しあっているのである。 また、それはあらゆる事象について言えるのであって、そうした頭の中で考えたことすべてが「文化」であると言うことも可能である。 |
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つまり、文化の素材は各自の主観であり、各自の主観の数だけ文化があるとするならば、これは教えることは不可能である。 しかし、人間は一人では生きていけない社会的存在であり、社会が成立するためには共通の言葉が必要であった。 また、共通の言葉を持つことで意思疎通が行われ、そこに「共同主観」というものが成立する。 |
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それが各自の主観をまとめた本来の「文化」であろう。 ただ、この「共同主観」はいわば多数決の上に成り立っているので、時代や地域で変化する。 「文化」はそうした変化の種々相で捉えられねばならず、また、それゆえに教えることが難しいのである。 そんなことを考えながら本年6月末に編集して出版したのが『講座・日本語教育学』の第1巻『文化の理解と言語の教育』(スリーエーネットワーク)である。関心のある人は覗いて見てください。 |
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